人はなぜ意味をつけたがるのか?

日々のいろいろ

こんにちは、tete la(テテラ)です。

ずいぶん、大袈裟なタイトルですね。

いそがしいのに、だれがいちいち
意味付けなんてするんだよって、言われちゃいそうですが。

ふと、考えてみたくなったのです。

意味付けについて。

ちょっと思い起こしてみると、
意外と私たちは、日々の出来事に
いろいろな意味をつけながら暮らしています。

うまくいったことには「わぁ、運がよかった」。

思い通りにいかなかったことには「何か理由があるはず」。

偶然の出会いには「きっとご縁があった、運命なんだわ」。

何気ない出来事に対しても、
何かしらの意味を見つけようとしているようです。

でも。

そもそも、
出来事には最初から意味があるのでしょうか?

それとも、
私たちがあとから意味をつけているのでしょうか。

意味をつけることで、世界が見えてくる

たとえば、空に浮かぶ雲。

ただそこに浮かんでいる雲を見て、

「あの雲、犬みたい」

と思った瞬間、雲は自分にとって、ただの雲ではなくなります。

もうその雲は、犬以外には見えなくなったりします。

雲そのものは何も変わっていないのに、
見る人の意識によって、そこに新しい意味が生まれます。

考えてみれば、私たちが認識している世界は、
そんなことの積み重ねなのかもしれません。

これは良いこと。
これは悪いこと。

これは大切。
これは必要ない。

名前をつけ、分類し、意味を与える。

そうすることで、複雑で曖昧な世界を、
自分なりに理解できるものへと変えているのでしょう。

人はわからないままでは落ち着かない?

人類の歴史を振り返ってみても、
意味を求める営みは、あちこちに見られます。

なぜ雨が降るのか。

なぜ作物がうまく育たないのか。

なぜ病気になるのか。

人は死んだらどうなるのか。

科学が発達するずっと以前から、
人々は自然現象や生と死に向き合い、
神話や信仰、さまざまな物語を生み出してきました。

そこには、自然への畏敬や祈りだけでなく、
理解できないものを理解しようとする、
人間ならではの営みがあったのでしょう。

そして、科学が発達した現代でも、
私たちは意味を求め続けています。

出来事の原因がわかったとしても、

「なぜ、自分にこんなことが起きたのだろう」

という問いは、別のところに残るからです。

原因を知ることと、意味を見い出すこと。

似ているようで、少し違うのかもしれません。

意味は、ときに境界をつくる

ところで、意味をつけるという行為には、
もう一つ、おもしろい側面があります。

それは、物事の間に境界をつくること。

自分と他人。

正しいことと間違っていること。

善と悪。

好きと嫌い。

こうした区別は、私たちが社会の中で生きていく上で、とても大切なものです。

けれど、その境界は、いつでも、どこでも、
誰にとっても同じなのでしょうか。

ある時代には正しいとされたことが、
別の時代には間違いとされる。

ある文化では神聖なものが、
別の文化では恐ろしいものとして語られる。

同じ出来事であっても、立場が変われば、
まったく違う意味を持つことがあります。

そう考えると、私たちが当たり前のように
受け入れている意味の中にも、人間が作り上げてきたものが、
ずいぶんあるように思います。

そして、一度つけた意味を絶対的なものだと思い込むと、
今度はその意味によって、
自分の見える世界が狭くなってこともあるのでしょう。

先ほどの雲の話が、わかりやすい例かも。

雲を見て「犬みたい!」と思った瞬間、

その雲は、その人にとって
ソフトクリームにも綿あめにも見える可能性があったのに、
犬に限定されちゃったりすることも。。。

雲は何も変わっていないのに、
こちらの見方が変わってしまったわけです。

よけい、分かりにくいかしら。。。

意味をつけない、という自由

では、意味をつけることをやめればよいのでしょうか。

そうとも言い難い。

誰かとの思い出も、日々の小さな喜びも、
自分にとっての意味があるからこそ、大切に感じられるんじゃないかしら。

ただ、
すべてのことに意味を見つける必要はないかなとも思います。

うれしいことがあった。

悲しいことがあった。

不思議なことがあった。

それだけで終わっても、別にかまわない。

理由がわからないことを、わからないままにしておく。

答えが出ないことに、無理やり答えを出さない。

そんな余白や、あいまいさがあってもいいんじゃないかな。

意味を持つことと、意味に縛られることとは、
なんとなく違う気がするんですよね。

何も意味がない、ということではなくて

ここまで考えてみると、

「人はなぜ意味をつけたがるのか?」

という問いそのものが、なんだかおもしろくなってきます。

意味を求めることによって、
人は世界を理解しようとする。

その一方で、
意味をつけることによって、
世界の見え方を自ら限定してしまうこともある。

そして、そのことに気がつくと、
今度は意味をつける自分自身について考え始める。

人間の思考って、とどまることを知りません。

でも、そんなふうに考えを巡らせることも、
人間ならではの楽しみなのかもしれませんね。

その、人間の業(ごう)ともいえる性質があるからこそ、
芸術を生み出し、宗教を生み、哲学を生み、
人間を「人間らしく」しているのかもしれません。

もしかしたら、宇宙そのものには、
私たちが考えるような意味などないのかもしれない。

それでも、その片隅で、今日も私たちは
小さな出来事に意味を見いだし、一喜一憂している。

世界に意味があるから生きるのではなく、
私たちが世界に意味をつけるからこそ、
世界はこれほどまでに雑多で、かつ彩り豊かに広がっているのかも。

しかし、本当に、

意味があるから大切なのか。

大切だから意味が生まれるのか。

あるいは、そんなことを考える必要すらないのか。

堂々巡りが、人の頭の中。。。

答えは一つではなさそうです。

ただ、目の前にあるものを、
目の前にあるものとして眺めてみる。

するとそこには、意味をつける前には気づかなかった、
何かがあるかもしれません。

もっとも、それを見つけた瞬間に、
また意味をつけたくなるのが人間なのでしょうけれど。

答えが知りたいのか、知りたくないのか。

もはや、答えを得たくないのか。

なんとも、まあ、人っておもしろい生きものです。

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